スマッシングパンプキンズの「アドア」について
世の中っていうのは、わかりやすいものでしか感動できない人間がほとんどである。
だからこそ、毎年一回日本テレビは「24時間テレビ」で障碍者の方にチャレンジをさせて「お涙頂戴」の演出をするし、流行りのドラマや映画は恋愛ものだし、その恋愛ドラマでは病気の主人公の恋人が空港で倒れて主人公が「助けてください!」とかなんとか、人々が行きかう中で叫ぶし、そんなことがあって飛行機の発着に影響が出て困る人がいるということを一切描かない。
巷では、主人公に感情移入させることに終始したドラマ、毎年公開される似たり寄ったりの胸キュン青春映画ばっかりになるし、例を挙げるだけでも枚挙に暇がない。
「わかりやすさ」はある意味では正義だ。なぜか? 実際に「わかりやすさ」というのはカネになるからである。アイドルが出演する胸キュン映画なんてものはまさにそれで、もう本当に「水戸黄門かよ」と思うほど単純に出来ているかわりに「胸キュン青春モノ」という枠組みから外れないかぎり一定数の動員を見込めるのである。
かくして、商業ベースという枠組みが生まれ、それに対してクリエーターたちは「右へ倣え!」の精神で「商品」を作り続けるわけである。批判めいた書き方になってしまっているけれど、別に僕は嘆いているわけでも怒っているわけでもない。「そういうものだ」と言いたいだけだ。
ここで一つ、当時絶大な人気を誇っていながらも、そんな商業ベースに敢えて乗らずにセールス不振に陥った作品を紹介する。
スマッシングパンプキンズの「アドア」というアルバム。
リリースされたのは1998年。
前作「メロンコリー そして終わりのない悲しみ」は二枚組アルバムであるにも関わらず全世界で1000万枚セットを売り上げた。
「メロンコリー」は当時最盛を誇っていた「オルタナティブ・ロック」というジャンルの一つの到達点となった。荒ぶるディストーションサウンドとクリーントーンの対比、叫びまくったかと思えば、次の曲ではアコースティックギターを持って穏やかに歌う。
「動と静」の違和感のない同居。それはまさに「愛と憎しみ」という一見すると相反するように思える二つが、実は表裏一体であることを表すかのようだった。
次はどんなヘヴィネスを聞かせてくれるのか、それともまた穏やかなサウンドスケープを披露してくれるのか?
ファンの期待はそのようなものだっただろうと推測する。しかし、スマッシングパンプキンズのフロントマンのビリー・コーガンは、それまでのバンドのキャリアから大きく外れるような音像を、この「アドア」というアルバムで提示して見せたのだった。
「アドア」 尊敬、敬愛、崇拝という意味だ。
このアルバム全体を通して聞こえるのは、それまで当バンドが惜しみなく披露してくれたアグレッシブな轟音やヘヴィネスではなく、陰鬱とも呼べるアコースティック、電子音の断片の数々だった。現在に至るまで、この「アドア」はスマッシングパンプキンズの「黒歴史」の一つと評され、一部ではこの作品のセールス不振が「最初の解散の要因」とも呼ばれている。
僕の音楽仲間界隈でも「スマパンのアドアが好き」なんて言った日には「変わり者」の烙印を押され、知ったような口調で「いやいや、あれは失敗作でしょ」なんて嘯かれたりもする。そんな言葉を聞くたびに僕は「ああ、やっぱり表面しか見ない人がほとんどなんだ」と思わざるを得なくなる。
このアルバムを本当の意味で理解する上では、フロントマンのビリー・コーガンの当時の状況を知る必要がある。
「メロンコリー」で大成功を収めた当バンドは、その後数々の災難ツ見舞われる。
ツアー中でのサポートキーボーディストのオーヴァードーズでの死亡、その場にいたドラマーのジミー・チェンバレンのこれまたドラッグ問題での解雇。
結婚したは良いものの数年でピリオドを打ってしまったビリーの私生活、極めつけは、家庭の事情で殆ど会うことの叶わなかった実の母の死。
山積する数々の問題の中でも、ビリーがこの「アドア」を作る動機となったのがこの、「母の死」であることは言うまでもない。
ここからは僕の妄想。
ビリーは母と他界するその時まで、実の母と再会することを夢見ていたのではないだろうか?
ディストーションギターをかき鳴らし、ステージでは縦横無尽に叫びまくる。
「俺は暴れまわるだけのただのロックスターではない」と言わんばかりに、アコースティックギターやピアノ、ストリングス、シンセを用いて壮大な世界を作り出す。
インタビューでは「俺は他人をクソほど信じない」と吐き捨てる。
どれもこれも、母からの愛情を求める子供のようにも見えなくもない。
音楽で無敵になることで、母に見てもらう。叫び続けることで、母に気づいてもらいたい。そんな幼児性を僕は感じざるを得ないのだ。
母に会うことがすべてだった。だが、それが遂に叶わぬ夢となって消えてしまったとしたら…?
もう、彼はそれ以上叫ぶことができなくなってしまったのではないか。
陰鬱な気分の時ほど、ギターのディストーションが耳障りに感じるものだ。とてもギターを弾いて暴れる気になんてなれない。叫ぶなんてもってのほかだ。
でも、ピアノなら、そんな気分の中でも弾けたりするものだ。
そんな叶わぬ夢を思い知った先に鳴らされたサウンドが「アドア」だったのだとしたら…。
そこで鳴らされている陰鬱な電子音も、揺蕩うようなアコースティック音の断片の意味も、すべてが納得できる。
陰鬱な気分の時ほど、僕はこのアルバムに助けられた。
どうにもならない悲しさに打ちひしがれたとき、軽快なロックサウンドは耳障りなだけだ。そんな気分のときに聞いたこの「アドア」は、まるで自分に寄り添ってくれるかのように親密な音に聞こえた。
「アドア」は、決して聞きやすいアルバムではない。
わかりやすいものでもないし、陰鬱なサウンドだけに一聴するだけでうんざりする人間がいるのも無理はないと思う。
「あれは駄作だ」と嘯く輩がいるのもよくわかる。
でも、このサウンドには意味があって、数は少なくても理解できる人間にはちゃんと届いている。
正直に書けば「アドア」は売れなかった。「わかりやすさ」が求められる商業ベースから「アドア」は外れてしまったのかもしれない。でも、痛みを負った心にここまで寄り添ってくれる音楽というのはそれほど多くはない。こんなに痛みをさらけ出した音楽が売れなかったばっかりに「無価値」だとは僕には到底思えない。
断言する。このアルバムには価値がある。