極楽記録

BGM制作受け付け中! BGM制作事業「キリカ工房」の主、ソロユニット「極楽蝶」の中の人、ユニット「キリカ」のギターとコンポーザー、弾き語りアーティスト、サポートギタリスト、編曲者のサエキの記録

映画「ジョーカー」鑑賞。バットマンでは救えないヴィランたち。

 

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パンフレット。永久保存確定ですな。

公開初日、平日の午前中だというのに劇場はほぼ満員。劇場に向かう前にオンラインでチケット予約をしていて正解だった。

DCやマーベルなど、ハリウッドでも大流行りのアメコミものではあるけれど、バットマンやスーパーマンが登場する映画ならここまでの集客力はなかっただろう。

ヒーローが出てきてボカスカ殴るだけの映画は他にも山ほどある。そういうのは熱心なアメコミファンに任せておけば良い。

 

前評判や予告編でアピールされ続けていたことだが、本映画は「アメコミ映画」の皮をまとった社会派映画である。例を挙げるなら「タクシードライバー」、チャップリンの「モダンタイムズ」。うまくいけばいけば映画史に残る作品となる。そして、重厚で陰鬱な予告編を見る限り、それは「うまくいっている」と確信できる。

 

つまり、「映画ファン」を自称するなら「絶対観なければならない映画」なわけだ。

そして、私は貴重な休日で滅多にしない「早起き」をして、TOHOシネマズ上野まで向かったわけである。コミックファンのみならず、映画ファンまで巻き込んだ本作の全貌をこの目で観た。

 

パンフレットを参考に、あらすじを少し書いておく。

 

舞台は1980年代初頭のゴッサムシティ。

不況にあえぐゴッサムシティでは、清掃局のストによって町中がゴミの山、貧富の差が拡大し犯罪が横行。

コメディアン派遣業で日銭を稼ぐ主人公アーサー。

彼は脳機能損傷によって緊張すると笑いが止まらなくなるという持病を抱え、精神科セラピーに通って薬を処方される日々を送っている。

ゴッサムの治安悪化の中、彼も仕事中に不良グループから暴行を受けるなどの被害に遭遇する。

老朽化したアパートで要介護の母と二人暮らしで、母は思い立つとすぐ地元の有力者トーマス・ウェイン氏に手紙を送っている。「30年前に、ウェインさんの元で働いていたの。今の私たちを見たら、彼が私たちを見捨てるはずがない」。貧困に苦しむ母の唯一の希望が、ウェイン氏に手紙を書くことだった。

派遣先の小児病棟でピストルを落としたことが原因で、アーサーは派遣業を解雇される。

その後、電車の中でウェイン証券の男たち3人が一人の女をからかっている場面に遭遇する。ピエロメイクのアーサーは笑いが止まらなくなり、それを見られて男3人に暴行され、発作的に持っていたピストルで3人を射殺。

 

“正体不明のピエロ男が、富裕層の証券マン3人を殺害”

 

この出来事がきっかけで、「ピエロの殺人者」は街の困窮者から英雄視され、ゴッサム中が「金持ちを殺せ」というスローガンであふれ、ピエロマスクをかぶった集団が各地で発生する。

市の財政難のため福祉サービスは閉鎖され、セラピーに通うことも薬を処方されることもできなくなったアーサーは、更なる狂気の淵へと落ちていく。

 

 

 

貧富の格差、障害者への無理解と無関心、虐待がどれほど人間を追い詰めるのか。

そして、本映画で描かれる荒れ果てたゴッサムシティの様子は、今ある現実社会と大きく重なる。日本以上に格差のあるアメリカなんかは特にそうだろう。「国民皆保険」じゃないしね、日本みたいに。福祉サービスの停止なんて、考えただけでも恐ろしい。

 

そういった状況で生まれてくる「悪」(というか、悪と呼ばれるもの)に対して、自警のバットマンはどれだけのことができるのか。

夜な夜な蝙蝠の恰好をして、潤沢な資金を使って揃えた兵器でヴィランたちを暴行し、刑務所に送り込む。

そんなことを無限にやっていても、はっきり言って埒が明かない。問題の根本を野放しにする限り、「悪」は生まれ続ける。その兵器を作った金を使って社会福祉事業や寄付を行った方がよっぽど「悪」の根絶につながるだろう。

何より、ジョーカーのような「悪」を生み出しているのは、彼らの声に関心を持たず私腹ばかり肥やしている「有力者」=バットマンたちではないか。

物語中盤、ウェイン証券の3人組に暴行されているジョーカーが彼らを射殺したとき、妙なカタルシスを覚えてしまった自分がいた。「金持ちを殺せ」というスローガンにも同様だ。

 

アーサーがウェイン氏の邸宅を訪れるシーンが印象的だった。

塀に囲まれたウェイン氏の邸宅。塀のすぐそばに、小ぎれいな恰好をした幼いブルース(のちのバットマン)がいる。塀の中にいる人間たちは塀の外にいる人間には関心など持たない。貧困に苦しんでいても、障害の無理解に生きづらい思いをしていても、「あっちに行け。近づくな」と言う以外、アーサーにかける言葉はない。

 

しかし、視点を大きくすれば、我々も加害者だ。例えば、これを読んでいる人の中で、中東の貧困に対して関心を持っている人間がひとりでもいるだろうか? 

いつぞや、フランスでテロ事件が起きたときにフェイスブック上でプロフィールアイコンをフランス国旗色に加工するのが流行った。しかし、シリアで空爆が起きてもだれ一人としてアイコンをシリア国旗色に加工する人はいなかった。

つまりこれは言うなれば、フランスは塀の「こちら側」で、シリアやイラクは「あちら側」だという無意識の理解だし、我々は「あちら側」の人々のことなど気にもしていないということの証明なのだ。

視点を広げれば、我々も「無関心」に支配された加害者である。誰も怒れる立場にはないのかもしれない。

 

 

911以降、ヒーロー映画において「正義」を描くことは難しくなっている。

現実世界では、自警のヒーローが悪を殴るだけでは解決できない問題が多いし、なによりも悪を生み出しているのが我々の社会だからだ。

本映画「ジョーカー」は、ジョーカーという一人のヴィランの誕生を描くことで、逆説的に「ヒーローが本来、何をしなければならなかったのか」を描くことに成功している。物語終盤でバットマン誕生のきっかけが描かれるが(ファンサービスかもね)、物語をここまで観てきた人間なら皆思うはずである、バットマンは無力であると。

 

富と名声、権力を持ったものの責務とは何か。

力を持ったものが果たさなければならない社会的正義とは何か。

 

新たなヒーロー像が求められる。