極楽記録

BGM制作受け付け中! BGM制作事業「キリカ工房」の主、ソロユニット「極楽蝶」の中の人、ユニット「キリカ」のギターとコンポーザー、弾き語りアーティスト、サポートギタリスト、編曲者のサエキの記録

渋谷、原宿を歩きまわっていた日々

 

毎年、ハロウィンの時期にクローズアップされる渋谷。「今年も品の無い大騒ぎ振りだな」と横目でテレビを見つつ過ごしていた。渋谷ハロウィンは、まだ知名度の無かった2012年頃が一番良かった気がする。仮装する人間が少数派で、これまた感度の高そうな人々が仮装している感じ。今のように大衆の手に落ちると、カルチャーっていうのは腐っていくものだ。

渋谷区のお偉いさんたちも、ほとほと手を焼いているようで、町内会のおじさんなんかは「なんであんな馬鹿共に金を払わなきゃならないんだ」と憤っていたな。

 

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2000年代の渋谷は、高校時代の僕の憧れだった。

 

 

なんというか、僕としては10代後半の頃に憧れだった街が地に落ちたような寂しさがあった。僕がハイティーンだった20年前は、渋谷は音楽、ファッションの発信地だったのに。

 

高校生の頃、僕の通う学校は高田馬場にあった。とは言っても、名門揃いの高田馬場でも偏差値的にはお世辞にも高いとは言えない学校だった。校則も厳しく、体育教師たちが校内で派閥を作り、体罰と恫喝で学校の全権を掌握しているという、なかなかにディストピア的世界観を漂わせている高校だった。どこのソ連だよって話。

絵にかいたような青春を期待していた入学当初の僕は早々に自分の青春を諦め、内に秘めた好奇心を押し殺しながら日々を過ごすこととなった。

大人になることへの憧れと、10代の頃の多感な感性を持った当時の僕は、いつしか放課後や休日に渋谷の街をたった一人で歩きだすようになった。きっかけは、当時読んでいた雑誌「BOON」や、深夜の情報番組の影響だった。スマホの無い時代、僕の情報源は「BOON」と「tower count down」、「ファッション通信」、「シネマ通信」に限られていた。少ない情報が、むしろ想像力を掻き立てたのだった。

 

渋谷駅を南改札から出て歩道橋を渡れば大型楽器店。ギター各種機材をチェック、ハチ公口に戻って明治通りを歩きだすのが僕のいつものルートだった。

 

今も昔もゴミがそこら中に落ちているセンター街はおっかないので無視。

 

右手にあるマクドナルドを通り過ぎ、「ミュージアムフォーSHIPS」で服を見る。ここは高いけどカッコいい。少し戻って、タワーレコードに入って試聴機にかじりつく。タワレコを出て正面、西武方面へ歩き、北上すればライブハウス「SHIBUYA-AX」。僕はここで人生初めてのライブを体験する。「Dragon Ash」のこけら落しイベントだった。スケボーキングも出ていたな。

タワレコへ戻り北上して高架下を抜け、原宿方面へ。

ここでは「SLAP SHOT」でまた洋服を物色。ストーミーフラッグタワーもこの辺だったっけ?

表参道との十字路には原宿女子の象徴「ラフォーレ」、僕は右折して青山方面へ。

古めかしいコンクリート造の同潤会アパートには感度の高そうな人々が窓からその姿を見せる。

サンタモニカの古着と、シェーキーズ

 

キャットストリートの「go getter」で、ラグランスリーブのロンTを買った思い出。ロンT、流行りましたよね。

 

表参道に戻り、道路を渡って裏原宿へ。

「LONSDALE」の、ライオンが描いてある紺色のTシャツは、色があせるまで着たな。

表通りに戻り、BEAMSへ。ここのBEAMSで買った青とブラウンのボーダー柄のセーターは、今でも冬になると着ている。洗いすぎて肩が落ちてしまったけど。もう20年近く着ているのか。凄いな。

 

雑誌の付録にあったマップを切り抜き、高校生の僕は独り渋谷と原宿を歩き回った。ほどなくして友人が出来て二人で回ったりもしたけれど、そいつは物欲が強くて、欲しいものがあるとすぐ僕に金を借りようとしてきたので距離を置いた。

というか、高校に通っていた時も、自分が渋谷原宿を練り歩いていることはあまり人には話さなかった。当時から、あまり自分のことは話さなかったのだ。今はブログやSNSがあるから、こういう形で自分を外に出せるけれど。

 

あの日々を懐かしく思う。今調べてみたところ、上記に記した店の殆どは閉店していた。あの時の渋谷、原宿は、いまでは僕の記憶の中だけの存在になってしまった。

 

憧れだった街は、時代に合わせてその姿を変えていく。