スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け 完結した物語を無理やり続ける意味とは?
観てまいりました、スターウォーズ最新作。
色々と話しをする前に、一度僕のスターウォーズ観を説明しておくことにする。
白状してしまうと、僕はかなりライトなスターウォーズファンである。
オリジナル・トリロジー(旧三部作)は当然観ているが、エピソード4を観たのはずいぶんと昔なので殆ど覚えていない。5と6はそれぞれ三回以上観た。
プリクエル・トリロジー(エピソード1から3ね)は一切観ていない。すいません、試験終わったら観ます。
そして、近年になってジョージ・ルーカスからディズニーに権利が移ってから制作されたシークエル3部作は全て観た。
子供の頃、ディズニーランドのスターツアーズが大好きだった。初めてディズニーランドに行った夏休み、僕は小学校で出された「夏休みの思い出を絵に描いてみよう!」という宿題で、スターツアーズの絵を描いた。宇宙空間に浮かぶ巨大な戦艦(後に、スターデストロイヤーという名前だと知った)や、タイ・ファイター、X-ウイング等、子供心をくすぐるガジェットがスターツアーズには沢山あった。つたないながらも、それらを絵に描くことが楽しかった。
そんなわけで、観ていない作品が多いし、ライトなファンであることは認めるものの、でも、僕は自分なりにスターウォーズのことを大事な作品だと思っている。僕よりももっとスターウォーズを愛している人たちがいるのも、勿論知っている。
だからこの映画評は、そんな「子供の頃にスターツアーズが大好きだった」程度のライトなスターウォーズファンである人間が書いた記事ということを念頭に置いて読んでいただければと思う。どうしてこんな前置きを書くかって? そりゃあ君、ネット上に数多居る「スターウォーズ警察」に捕まりたくないからだよ。ふははは。
閑話休題! さて! スカイウォーカーの夜明け、行ってみよう!
上記にある通り、本作は原作者ジョージ・ルーカスの手を離れ、エンターテインメントの王国ディズニーに権利が移った「シークエル・トリロジー」三部作の完結編である。
ターミネーターの時も書いたけど、これこそが「世界一カネのかかった同人誌」だ。
世界最高のスタッフと資金をつぎ込んで作った同人誌。こんなに予算をつぎ込んで、最新技術を用いて作れる作品は、おそらくスターウォーズシリーズ以外にはないだろう。駄作ができたとしても、ファンは観に行くだろうし、作品の質が良きにしろ悪きにしろ製作費は回収でき得る。
ただね、またターミネーター同様、スターウォーズも「終わっている」作品なんですよ。
制作された時系列は逆になるけれど、スターウォーズはエピソード6「ジェダイの帰還」で結末を迎えている。銀河帝国の皇帝パルパティーンは倒され、第2デススターは破壊され、ルーク・スカイウォーカーは実の父と最後に和解する。まさに大団円。
そこから再びシリーズを続けるというのは、やはり「スターウォーズ」がカネになるからに過ぎない。もちろんお金儲けは悪いことではない。それに、監督やプロデューサー等、作る側に課せられた責任感や重圧もハンパじゃないはずだ。
だって、スターウォーズは映画史それ自体を変えてきた映画なんだよ。
映画の終わりに出てくるスタッフロールが長くなったのはスターウォーズの影響だし。「新たなる希望」が公開される前の映画のエンドロールって短かったもんね。
オリジナル・トリロジーの三部作は、その都度特撮技術の限界に挑んだ映画だった。「帝国の逆襲」の雪上戦なんてまさに挑戦。当時の特撮技術では、雪景色が広がる白背景に合成を施すと、合成した箇所に緑の線が浮き出てしまうはずだった。しかし、ルーカス達はその緑の線を最小限に抑えることに成功した。光学合成の数も、フィルムの強度の関係で当時は「2つか3つ合成するのが限界」とされていたのに、エピソード6では合成数が60を超えていたとか。
とにかく、スターウォーズは特撮映画の歴史を作った映画なのである。作り手側の気合いがハンパじゃない。映画史における一つの「伝説」と言っていい。そんな「伝説的作品」の続編を作ったところで、敵うわけがないのである。越えられるわけがない。
それでも、現代映画界の最高のスタッフを集めて続編シリーズを作った。「終わってしまった伝説的大作」の権利を買い取り、ディズニーは無理やりにもその続編の制作を開始した。
物語上の色々な制約があるし、ファンも多くいるし、そもそも終わってるし、続編を作るなんて本当にハードルの高い作品である。以前の僕なら「そんな難しいことによく挑戦したな」と感心したかもしれない。しかし、今の僕ならこう言う。
「挑戦も何も、お前らが勝手に始めたことだからね」と。
しつこくて悪いけど、終わってるのよ。原作者が終わらせてるし、その段階では疑問は残りつつも綺麗に終わっている。
そんな作品に対して、また無理やり続編を作って何がしたかったのかって、カネ儲け一択でしょ。
失敗に終わったとしても、ファンはカネを払いつつも「あれはだめだ」という話で盛り上がれる。
監督やプロデューサーもしっかりギャラは貰っているわけだし。「挑戦」も何もないわけですよ。
まあ、色々ありつつも今回で結末を迎えたシークエル・トリロジーの三部作。
まとまりに欠けるシリーズになってしまった原因はいくつかあるけれど、極めつけはやはりラスボスについての事柄だろう。おなじみの「ドクターワイリー登場」である。もう、これに全てが現れている。やはり、現代の作り手は旧作の偉人たちを超えることは無かったし、無難に火消しに走るのが精一杯だったのだ。あれを超える悪役を創造することは、やはり敵わなかった。
勿論、面白いシーンも沢山あった。カイロ・レンの、祖父に対する劣等感や苦悩はそのままこの映画の作り手の苦悩に置き換えられるし、魅力的なキャラクターだった。
X-ウイングの空中戦と、ピンチの時の騎兵隊登場一発逆転シーンはやはり胸が熱くなるし、懐かしい要素も沢山あり、ミレニアムファルコンに乗ったチューイと、同乗するある人物の姿を観たときは、「ジェダイの帰還」を初めて観たころの自分の少年時代を思い出して、思わず落涙してしまった。思い出と共にあるスターウォーズ、である。
上に挙げたものを分析すると、カイロ・レン以外は元々このシリーズにあった遺産である。言ってしまえば、カイロ・レンの描き方に関してだけは、作り手は「パンツを脱げた」のだ。そこはやはり特筆すべきだ。
しかし、シリーズ全体として観た場合、やはり歪ではある。ラスボスもいきなり冒頭でテキストという形で書かれていたし。「えっ」とつぶやき思わず劇場でのけぞってしまった著者なのだった。前振り一切なしだしね。ビビったよ。
最終作である本作は、エピソード7と8で広がり過ぎた諸々の火事を「なんとか消してみせた」という具合。
いや、色々書いたけど凄いとは思うんですよ。これだけお金をかけて最新技術を使って「スターウォーズ」を見せてもらえたことには、やはり感謝するべきだとは思います。
でも、やはり「カネ儲け」以上の意味を、僕はシークエル・トリロジー三部作には見出せなかった。残念無念である。