極楽記録

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村上春樹「風の歌を聴け」ー「鼠」の正体と、村上春樹小説の一貫性ー

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今までの人生で、何度読んだかわからない。

時折、気が向いたときにパラパラとページをめくり、開いた箇所を読む。読んだ後、この小説の主人公のように振舞いたくなる。そんな小説だ。

 

風の歌を聴け」は村上春樹のデビュー小説である。当時、バーを経営していた20代の村上氏は、ある日の午後の野球場で、試合を観戦していた時に急に思い立ってこの小説を書き始めたのだった。

毎晩店を閉めた後の数時間。この小説は断続的に書かれていった。そうして書かれた彼の小説は、物語のセオリーである「起承転結」を完全に放棄し、「若き主人公が地元神戸に帰る」という設定だけを残した短いエピソードの集合という形式で書かれた。閉店後の店で断続的に書かれたが故に生まれた、普通とは異なった形式である。

 

舞台は1970年夏、大学生の主人公「僕」は地元である神戸へと帰省する。「鼠」と呼ばれる友人と「ジェイズバー」でビールを飲みながら退屈な日々を過ごす。

帰省中で主人公「僕」が出会う「小指のない女の子」との出会い、すれ違い。やがて元居た場所に帰った「僕」は、もう戻ることのない一夏を想う。

 

物語の大枠は上記した通りだ。その他に、小説家デレク・ハートフィールドの逸話や、哲学者の引用の羅列、唐突に挿入されるラジオ番組の放送などを交えて、物語は進んでいく。

 

私がこの小説を何度も読んだ理由は、この小説が持つ時代性にある。

引用や逸話の羅列、唐突に挿入される場面転換、これは70年代フランス映画の巨匠「ゴダール」を思わせる。実際、村上氏は「ゴダールの影響を強く受けている」と公言もしている。神戸という港町での男女のやり取りも、「気狂いピエロ」を思わせる。読んでいると、赤や青の原色鮮やかな世界が浮かび上がる。

 

そして、何より特筆すべきは主人公「僕」と友人「鼠」とのやり取りだ。

「金持ちなんてみんなクソくらえだ」という「鼠」の正体を、私は長い間掴めずにいた。最近では、この「鼠」というのは、過ぎ去ってしまった「60年代的価値観」なのではないだろうかと思うようになった。

 

「金持ちはクソくらえ」というのは、「30代以上を信用するな」「戦争反対」という、世界に対する否定ではないだろうか。

60年代は、いわば否定の時代だった。信じるに足る正義がそこにはあったし、構図としてわかりやすかった。若者は学生運動に参加し、社会の不正義を正そうとした。

圧倒的正義がそこにはあった。まさか、敗北するとは思わなかっただろう。

 

学生運動が終わった後、多くの若者は何に対してコミットして良いのかわからなくなった。村上氏もその一人だった。彼の小説に出てくる主人公が、人と距離を取って接しようとしたり、必要以上に熱くなるのを避けて客観的になろうとするのは、結局自分の信じていたものが崩壊してしまって、何も信じられなくなってしまったからではないだろうか。

 

60年代的価値観の象徴である友人「鼠」が苦悩する様もよく理解できる。

小説の舞台は70年代だ。街にはビーチボーイズの「カリフォルニアガールズ」が流れている。「素敵な女の子がみんな、カリフォルニア・ガールならね」と朗らかに歌われるその歌には、60年代的な否定の価値観は存在しない。「金持ちはクソくらえだ」という言葉さえも、時代を先取りした(架空の)小説家ハートフィールドの小説のタイトル「気分が良くて何が悪い?」に一蹴される。

否定ではモラルがもたない。主人公「僕」はそれを知っている。だから「鼠」に対して「うまくやっていくしかない」という趣旨の言葉を諭すように言う。それに対して「鼠」は「あんたは本気でそう思うのか? 嘘だと言ってくれないか?」と困惑する。60年代的価値観は、70年代ではもう通用しなくなってしまっているのだ。

 

このことからわかるように、この小説は60年代を過ごした人間の喪失感が描かれている。84年生まれの私が理解するのに苦しんだ理由がそれかもしれない。時代を共有していない人間には伝わりづらい物語ではある。でも、学生運動という名の60年代が残した爪痕の大きさというのは、現代にも大きな影響を及ぼしているのは確かだ。

そして、村上氏は今に至るまで、その「60年代が残した爪痕」についての事柄を、小説に描き続けているのである。

 

 

この物語を書いた後、村上氏は様々な形で「60年代の爪痕」を物語にする。

恐らく、村上氏の創作の大きなテーマがそこにあるのだろう。

60年代的価値観の終焉を描く「羊をめぐる冒険」、その後の内閉性を表した「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」、愛による内閉からの離脱の物語「ノルウェイの森」などの後続する代表小説。

 

オウム真理教などの新興宗教の台頭は毛沢東思想「人民公社制度」から派生されたもので、これも「学生運動の産物」であり、「60年代の爪痕」の一つだ。小説「1Q84」では、新興宗教に関する描写がある。現時点での長編最新作「騎士団長殺し」にも、たった一文ではあるが、関連性を持たせるような描写がある。

 

この「風の歌を聴け」という小説は、まさしくそれら後続小説の起源である。村上氏の描こうとしているテーマは、デビュー作から常に一貫していたのだ。その事実に舌を巻く。

60年代とは何だったのか。その巨大な闇の全貌を、村上氏も我々も、まだ掴めずにいるのだ。

 

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

 

風の歌を聴け (1979年)

風の歌を聴け (1979年)