極楽記録

BGM制作受け付け中! BGM制作事業「キリカ工房」の主、ソロユニット「極楽蝶」の中の人、ユニット「キリカ」のギターとコンポーザー、弾き語りアーティスト、サポートギタリスト、編曲者のサエキの記録

恐れ多くもシン・エヴァの話をしてみる。「承認」ではなく「愛」の価値に気づいた少年。

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早くもアマゾンプライムでも配信開始しましたね。

 

 

※本ブログには問題ない程度に本作のラストに触れた箇所があります。

公開から時間も経っているので問題ないと思いますが、本編未見の方はご注意ください。私も映画好きなので、念のため。

 

 

さて、エヴァに関しても所謂「警察」の方々が多いので、語るのもはばかられるが、配信も開始したことだし少しだけ語ってみようと思う。

ちなみに、私は映画公開フィナーレの二日前に劇場でみることができた。テレビ版放送の95年から26年の歳月を経た本作は、驚愕の大団円を迎えていた。広げまくっていた26年分の大風呂敷を、製作者の庵野秀明氏とスタジオカラーのスタッフの方々は見事なまでに畳んでみせたのである。あの「エヴァ」の物語を余韻を残さずに終わらせる、それだけでも大仕事なのに、感動のラストというおまけ付きである。「あっぱれ」の一言だ。

 

エヴァといえば、私にとってはテレビ版のラストシーンが一番印象に残っている。「物語」という形式をすべて放棄し、キャラクター達に自問自答のように思考を繰り返させることによって「作品としてのエヴァ」の核心に迫った問題作だ。

メタ的構造(というと語弊があるかもしれないけど)を用いて、キャラクターたちが「物語」の枠から飛び出し、様々な問答を繰り返す最終回。前衛映画的ともいえる本作の最終回は、放送後に様々な議論を呼んだ。

 

白状しよう、私はテレビ版の最終回で泣いた。

 

異論は理解できる。

そもそもロボットアニメ作品である以上「物語」という形式を放棄することはルール違反である。キャラクターたちが「物語」の枠を飛び出すことがアリであるなら、もう「なんでもあり」である。第一、物語として成立させていない。

しかし、ここはあえて言い切ろう。そんなことは問題ではない。

 

人はなぜ、絵を描くのか? なぜ文章を綴るのか? どうして音楽を作るのか? 面倒な思いまでして映画を作るのはなぜか?

 

答えは一つ、「伝えたいことがあるから」だ。

 

エヴァの最終回にはそれがあった。暴論かもしれないが、私は「エヴァ」はあの最終回に「エヴァの物語」の全てが詰まっていると今でも思っているし、むしろ最終回だけで良いとさえ思う。全部言ってくれてるし。

細かい設定やら整合性にこだわる人々は、あの最終回を「失敗作」と突き放す。それもわかる。「結局、人類補完計画ってなに?」「使徒はあれで最後?」「アスカはどうなっちゃったの?」など、回収できていない諸々があった。

それでも言い切る。

設定や整合性等は大した問題ではない。大事なのは「作者はここまでして、我々に何を伝えようとしたのか」である。

 

今回の「シン・エヴァ」に関しても、先に述べたテレビ版の最終回の雰囲気を踏襲したものとなっていたと、私は思う。

メインキャラクターたちそれぞれに、各々が抱えている心の問題と向き合わせ、助言を与えながら回復を促す(成仏させる、という表現が一般的か)。

アニメ版の最終回と、構造は同じである。私は医者ではないが、私が理解している範囲で言えば、このアプローチは精神科療法の一種ではないだろうか。

 

「最愛の人を亡くしてから、現実とうまく向き合えない」

エヴァに乗らないと父から見放される、それが怖い」

「最高のパイロットでいなければ、自分に価値はない」

「自分はここでしか暮らせない。他の場所には居場所がない」

 

キャラクターたちが抱えている上記のトラウマはすべて、所謂「認知の誤解」である。

 

それら一つ一つを順番に解いていく過程は、アニメ版の最終回の構造を踏襲しているだけでなく、より深く個々のキャラクターに向き合ったものとなった。決して焼き直しではなく、より一歩深く踏み込んでいくクライマックス。そういう意味では、十分に「エヴァらしい」ラストと言えるのではないだろうか。「エヴァっぽくないラスト」という批評があるのもわかる。でも、そもそもエヴァンゲリオンって、こういう作品だったじゃん? 伝えようとしていることは何も変わっていない。これこそがエヴァだよ。

 

話は変わって、

エヴァに乗る」とはどういうことか?

なぜシンジはエヴァに「さよなら」できたのか?

 

ここに、現代社会が抱える病理が存在すると私は確信している。

シンジにしろアスカにしろ、詰まるところ、十分に愛を受けなかったことがトラウマの発端になっている。人は愛されたいと願うとき、「何者か」になろうとする。

 

「自分はこんなに頑張っている」

「自分は優秀なパイロットだ」

 

「だから優しくしてくれ」

「居場所を与えて」

 

これらはすべて条件付きの「承認」であり、「愛」ではない。現代を生きる我々も、このあたりをよく誤解しがちである。

彼らが欲しいのは無条件に注がれる「愛」のはずなのに、やっていることは「承認」を求めることと変わらない。

 

つまり、エヴァに乗っている限り、貰えるのは条件付きの「承認」しかない。彼らが欲しい「愛」というものは、エヴァに乗っていても見つけることはできないのだ。

だから、本物の愛情(無条件の愛)を手に入れた彼らは、エヴァを降りることができた。すべてのエヴァンゲリオンに、「さよなら」をすることができたのだ。

 

物語の終盤、「エヴァ」というアニメの意味を失い、線画になっていくシンジ君と、海辺の風景。ここでもメタが使われる。印象的なシーンだ。

 

シンジ君に、もうエヴァは必要ない。

「承認」ではなく「愛」の価値に気づき、現実世界を生きる選択をしたシンジ君。

そんな彼を、心から祝福したい。