身延へ行く 一日目 ー国道300号線閉鎖、雨畑の集落、下部温泉へー
某月某日、いつも音源制作依頼などでお世話になっているNS製作所さんに誘われて、私は山梨県南巨摩郡身延町へと旅行に行った。
このブログにも幾度もご登場されているNSさんは、実は先日退職した会社の別部署にいらっしゃる方で、今回は私の退職に際しての「卒業旅行」ということで企画や手配をしてくださった。
在職中もスノボ旅行や奥多摩旅行、それから楽曲のご依頼等含め、お世話になりっぱなしだったのだけれど、とうとう退職の際までお世話になりっぱなしのままになってしまった。本当に感謝です。
なぜ身延なのか、というと、答えは簡単。アニメが好きな方なら即お分かりだろう。
我々二人して、アニメ「ゆるキャン△」のファンだからだ。
私も、退職前に三か月ほど休職していた際に「ゆるキャン△」は全話制覇していた。休職中の心身共にやられていた状態で見た、アニメの中の富士山の風景の美しさには何度も励まされた。「ああ、世の中美しいものが色々あるな」「また旅に出たいな」等、そんな穏やかな感情が自分の心を癒してくれた。
そして、念願叶って身延旅行である。
結論から言うと、今回の旅行は自分にとっては「アニメの聖地巡礼」にとどまらず、様々なことを考えさせてくれる旅となった。
道中、予期せず訪れることになった集落や廃墟、台風によって陥落してしまった道路や鉄橋など、東京という都市に住んでいる自分が普段踏み入れることのない場所に身を置いたことで、見えてきたものが幾つかあった。
集落、というのは都会に住んでいる自分からすると、とても不便な場所だと感じる。買い出しのためにわざわざ車に乗って遠方まで行かなければならない、利用できる公共機関も近場にはない、電車に乗るにも駅までが遠いし本数も少ない、娯楽も限られている、地域のコミュニティも限定的だ。
なぜそんな不便な場所に住んでいるのか、長い間自分の中で疑問があった。
仕事で疲れて体調を崩し、3か月の休職期間を終えた自分が集落を訪れたとき、それまでとは違う感慨を抱いている自分に気が付いた。
「都会のスピード感についていけない」
ひょっとしたら集落に住む人々も、同じような感慨があるのかもしれない。そんな風に思った。
これは、心身ともに疲れていた自分が感じた、ただの妄想かもしれない。そもそも、集落に住まわれている方々は、都会での生活をご存じない方も数多くいらっしゃると思うので、この感慨は自分のただの一方的な勘違いか、押しつけなのかもしれない。申し訳ない。でも、少し自分の頭を整理するために書いてみることにする。
現代では「ひきこもり」が社会問題となっており、推計では潜在的なひきこもり者の数は100万人~200万人と主張する専門家も少なくない。
都市に人口が集中した結果、その慌ただしいスピード感について行けずに「ひきこもり」となる人々が一定数いるわけである。
これが例えば、50年くらい前だったらどうだろう?
1970年代、80年代の初頭くらいまでなら、まだ田舎に実家がある人々も多く、田舎で暮らすスキルがある人々も多くいただろう。都会のスピード感について行かれなくても、Uターンして戻る場所があった。
ここで一つ例えばなし。
80年代初頭に人気を博したドラマ「北の国から」の田中邦衛扮する主人公「黒板五郎」も、妻の不倫がきっかけで富良野への移住を決断する。都市生活への失望も幾らかあっただろう。
もし五郎さんが現代の東京に生まれ、田舎での生活スキルを持たずに育っていたら、例え都市生活で心が折られたとしても、富良野には行かなかったかもしれない。東京でひきこもりになっていたのでは?と個人的に思ってしまう。
つまり、いつの時代にも「都会のスピード感についていけない」人っていうのは、一定数いるのである。時代によって、表出の仕方が変わっただけだ。昔の人は、田舎で暮らす技術があった。現代ではひきこもるしかなくなっているのかもしれない。
集落で暮らしている人々には直接お会いしたことがないので、ここで書かれていることはすべて私の妄想の域を出ない。一方的な偏見とも取られかねない。気分を害する方がいたら申し訳ない。
問題なのは、そこまで集落に対して感慨を抱いている自分自身の今の心境だ。「俺も、ちょっとだけ都会のスピード感が嫌になってるのかな?」と、我に返らされたのだった。
私は一体何を考えているのか。集落に何を期待しているのだろう?
答えはまだ出ない。
とにかく話を続けよう。
現時点で1800文字も書いているのに、まだ旅の思い出が何も書かれていない。
小雨の降りしきる中、恵比寿駅にて集合した我々はNSさんの手配してくださったレンタカーに乗り込み、山梨方面へと向かった。
東京で降りしきっていた小雨は西へと移動していくとすぐに収まり、所々曇ってはいるものの、比較的穏やかな天候に恵まれていった。
下部温泉到着。
我々が最初に行ったことは、昼飯を食らうことだった。
そして、この旅の最大の目的である本栖湖へと車を走らせる。
が、ここで思わぬ事態に遭遇する。
下部から本栖湖へと向かう最短かつ唯一の道が閉鎖されている。我々が本栖湖へと向かうには一旦北上して東に向かってぐるりと迂回するしかない。時間の関係で、明日へと予定をずらし、一路早川方面へと向かう。
ここでも台風の爪痕で通行止めが発生。しかし、好奇心旺盛な我々はそんなことではめげない。むしろ血が騒いでしまう。
陥落箇所を見学した後は、雨畑のつり橋へ。
作中で、リンちゃんが一人訪れたつり橋。この橋の先にも何かありそうな気配があったが道が狭く、私の装備が廃墟探索仕様でなかったこともあり、敢え無く引き返すこととなった。残念無念。次回はちゃんと仕様と装備を考えていきます…。
雨畑地区はディープな場所だった。
冒頭でも記した集落が広がっていた。
一方通行の山道を車で駆け上り、硯の里キャンプ場へ。
ここでNSさんの卓越した運転技術が光る。まともに整備されていない、車の通りにくい一方通行の山道を、まるで車と同化したかのように華麗にハンドルをさばいて進んでいく。スピードもほとんど落とさない。廃墟探訪がお好きなNSさん、酷道を行くのは慣れているとはいえ、簡単なことではないはずだ。
助手席でその様子を見ている私は立派なペーパードライバーである。ハンドルさばきを見て、すごいな、と感動するとともに、先ほど物音がして逃げようとした自分を大いに恥じるのだった。
車内が木の葉だらけなところを見ると、やはり投棄されている、ということだろう。どういう事情でここに陸自のジープがあるのやら。
雨畑地区、数々の「通行止め」に遭い、思わぬ形で立ち寄ることになったが、とても興味深い場所だった。いつかまた、訪れたいとすら思う。
時間の関係で、下部温泉方面に戻る。
ここで、我々は「聖地」であるスーパーマーケット「セルパ」に向かう。
友人への土産と、翌朝の朝食等を購入し、宿へと向かう。
NSさんが手配してくださった旅館「甲陽館」も味のある旅館だった。旅館の主人のお爺さんが我々に茹でた枝豆をくれた。アットホームなサービス、最近ではあまり体験することも無いので、とても心が和んだ。
下部温泉駅の目の前の、丸一食堂にて夕飯を食べる。
のんびりと時間が過ぎる。旅の疲れも少しずつほぐれていく。
夜は小雨が降り注いでいたが、せっかくなので傘を差して温泉街の写真を撮る。
決して小綺麗とは言えない温泉街だったが、どうもそれが旅行当時の自分の心境とよく合っていたように思う。
雨畑の集落や、硯の里も、決して華やかな場所ではないし、そこに「現代」を象徴するようなものは殆ど見つけられなかった。
そんな場所に身を置くことで、自分の考えをまとめることができたように思う。色々と検討違いなものはあるだろうけど、今の自分には必要な旅だったと、改めて感じる。
初日はここまで。次はまた、二日目の出来事を書いていこうと思う。