遅まきながら、昨日1月15日に鑑賞。鑑賞後は正直「お通夜ムード」だった著者である。10代のころ、頭をブン殴られるような衝撃を与えてくれた伝説の作品が、ただの「ハリウッドSFアクション」に成り下がってしまったような気がした。哲学的示唆に富んだ第一作、ディストピア的SF世界観にヤラレた第二作、絶望と共に幕を閉じた第三作、全てに通じていたのは切迫感と緊張感、クールさだ。
本作にはそれらすべてが薄まっていた。
謎のない解りやすいストーリー、SF要素も予想の範疇を出ない、全体的にコミカルな印象を持たせる展開。時折挿入される過去作映像に関しても「ああ、もうあのころのスケールの感動は訪れないのだろうな」と、寂しさを感じたものだった。
2年後にテレ東の「午後のロードショー」で放送しているだろうな、なんて思ってしまった。
でも、今冷静になって考えてみると、これは「意識のアップデート」ができていない私自身の問題もすごくあるような気がしてきたので、少し頭を整理していくことにする。
まずは、映画本編以外の話を書く。ネタバレしてしまうので詳細は省くが、本作の前半は、今流行りの「メタ構造」となっている。「マトリックス」原作者の監督ラナ・ウォシャウスキーの「マトリックスシリーズ」に対する心境が吐露されている。
毎年のようにワーナーから「マトリックスの新作を作れ」と伝えられ、その度に「ノー」を言い続けてきたウォシャウスキー姉妹。しびれを切らしたワーナーは、「原作者抜きの新たな『マトリックスシリーズ』を制作する」計画も考慮しだす始末。
ある日、親友と両親を立て続けに亡くしたラナは、失意の中で、自身の心の中にいるネオとトリニティがいることに気づく。傷ついた彼女の心を癒したのは、彼女自身が作り出した実在しないキャラクターたちだった。
以上が、本作の制作を決意したラナの、公式に発表されている経緯である。映画の広報のために、幾らか盛った部分もあるかもしれないが、仮にそうであったとしても、ワーナーに自分の作品を売り渡さなかったラナの心意気には「あっぱれ」という他はない。
そして、映画の前半から中盤にかけて描かれる主人公:トーマス・アンダーソンの、周囲を取り巻く環境や「新作を作れ」と言われてストレスを感じまくる描写は、言うに及ばず作者ラナ自身の本音であり、映画業界に対する風刺だ。
恐らく、彼女は「マトリックス」という最大の担保を使って、「この際言いたいこと全部言っちゃう!」という覚悟を決めたのだろう。かつてはトランスジェンダーであったラナ。性別適合手術を経て女性となり、直面することとなった「女性に対する社会の抑圧」に対して、新たに「覚醒して戦う」物語を作る必要があったのだ。
言うに及ばず、「マトリックス」という伝説的な作品はアメリカ社会に大きな影響を与えた。「救世主が世界を救う」という筋書きを曲解され、Qアノンをはじめとする陰謀論者たちに利用され続け、今日におけるアメリカの混乱を助長している。そんな現状に一番心を痛めていたのは、ほかならぬ原作者本人だろう。
自分が作り出した作品が世界を変えてしまった。
その影響、すべてに落とし前をつける。
その上で、これからの世界はどうなるべきなのかを提示する。
それらの作者の思いが作品を通じて、観ている我々に「意識をアップデートしろ!」というメッセージを叩きつける。そうか、多様性の時代か。例えば「女は結婚して家庭を持って、家族のために滅私奉公する」という、「普通」という旧態依然とした価値観がどれほどの人間を抑圧するのか。
我々が新たに覚醒して戦うべき相手は、そういった「普通」という名の抑圧なのだ。
私が考えているよりも、そういった抑圧に苦しんでいる方々は多いのだろう。増して、昨年「ブラック・ライブズ・マター運動」や「Qアノン」などで激動に揺れまくったアメリカ国内に於いては、「多様性」っていう言葉には切迫感がある。日本に住んでいる我々が感じているものとは比ではないだろう。
世界の価値観が大きく変わろうとしている今、この辺りの意識のアップデートを私もしなければならないなと感じ、反省する次第だ。