カセットテープMTRを駆使する。クリエイターとアーティストの違い。
試験的に自分の部屋でライブ映像を撮影してみた。
音源はカセットテープMTRにて録音した。
PCで行う作曲作業、DTMの感覚に慣れてしまうと、カセットMTRで録音するときに苦労しますね。
まず、4トラックしかない。モノラルでドラム、ベース、ギターの三つを録音すると、もう3トラックだ。これに例えば、ドラムをモノラルでなくステレオで録音してしまうと合計4トラック使うことになるのでこれ以上は重ねられない。
4トラック以上録音するには3トラック分を一つのトラックにまとめる「ピンポン録音」という方法があるのだけれど、音質は劣化するしまとめたトラック内の各パートの調整ができなくなる。
録音中、失敗したら一曲丸まるすべてやり直し。録音の時の緊張感が半端ない。
DTMならトラック数は無制限だし、ミスしても、ミスした部分からやり直せる。便利な世の中だ。ゆえに、いくらでもやり直せるし編集もできるため、レコーディングに対する「甘え」も生まれやすい。
そんな不便極まりないカセットテープMTR.
でも、音質の温かみは何にも代えがたい。機械的なはずのシンセの音が、懐かしい温かみを持って鳴らされる。
久々にカセットMTRを使用したのには理由がある。
それは、変な話だけれど、オリンピックの開会式があまりにもつまらなかったからだ。
オリンピック開会式については山ほど文句があるので、それは後日書こうと思う。
以前から思っていたことだが、クリエイターの皆さまはみな同じ機材、同じソフトを使って、皆同じような映像やら音楽やらを作りすぎである。オリンピックの開会式の時にそれがすべて表れていたように感じた。毒にも薬にもならないCM映像のようなものを長々と見せつけられたような気がした。個性がない。まあ、CMに個性なんて必要ないんだろうけど。
無味乾燥、嫌になるくらい清潔。
そりゃ、映像にしろ音楽にしろ鮮明でクリアな質感だったと思う。でも、そんなもの160憶円もかけてるんだから綺麗で当然だし金掛ければ誰でもできる。言いすぎだろうか。
開会式、自分が見たかったものがそこにはなかった。
そこで、自分が過去に影響を受けた音楽や映像は何だったのか、今でも大好きな音楽や映像は何だったか改めて思い出すことになった。
例えば、映像だったら、デジタル時代が到来してもアナログフィルムにこだわり続けた北野武氏の映像とか。インディ精神で映画を撮り続けたゴダールとか。予算と戦いながら特撮を毎週撮り続けた円谷作品とか。
4トラックレコーダー2台だけでレコーディングしていたビートルズも最高だ。
決してクリアではないけど、アナログ機材のビビットな質感はデジタルでは再現できない。
自分の主な戦場は映像ではなく音楽だ。音楽で、前述したようなアナログの温かみを表現したい、商業ベースでは出せない作品を作りたい。そんな風に思った。
クリエイターっていうのは、商業ベースで商品をデザインする職種だと思う。最近の自分はクリエイターになろうとするあまり、「商品としての音楽」を作ることにこだわりすぎていたように思う。もちろん依頼仕事においてはそこに拘るのは確かに大事なことだし、これからも続けていくけれど。
クリエイターとしての面ともう一つ、自分のやりたいように自分を表現する手段が必要ではないかと気づかされた。もっと自由に、他には求められない個性的な音楽を作りたい。
クリエイターとアーティストは似て非なるものだ。クリエイターが作るものは清潔にパッケージングされた「商品」だ。アーティストが作るものは、血の通った「作品」だ。
アーティストにとってはテープノイズさえも意味がある。クリエイターが真っ先に「雑音」として削除するものさえも、アーティストにとっては意味深いものとなる。テープコンプで潰された音の質感の豊潤さも、確かな意味を持つ。
今後は「クリエイター」としてだけではなく「アーティスト」としても、「商品」だけではなく「作品」も作れるように調整していきたい。
もっと自由であるべきなのだ。