極楽記録

BGM制作受け付け中! BGM制作事業「キリカ工房」の主、ソロユニット「極楽蝶」の中の人、ユニット「キリカ」のギターとコンポーザー、弾き語りアーティスト、サポートギタリスト、編曲者のサエキの記録

小説「スタンドバイミー 恐怖の四季 秋冬編」 物語を語る意味。 

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映画版とはまた違う、不穏な文体が魅せる冒険譚。


 

 

アメリカを代表するホラー作家スティーヴン・キング氏の大傑作である。そう、キング氏は元々ホラー作家だ。本作では少年たちのひと夏の思い出話が語られるが、物語の行間のあちらこちらに不穏な雰囲気を感じ取ることができる。

 

まず、原題が「スタンドバイミー」ではない。「The Body」というのはそのまま「死体」という意味だ。4人の少年たちは、行方不明となったレイ・ブラワー少年の死体を見つけ出し、街の有名人になるべく、短い旅に出る。少年たちはそれぞれ、両親との不和、父からの度重なる暴力等、家庭環境に闇を抱えている。

 

映画版では死体を見つけた折、主人公であり語り部である少年ゴーディは泣き出してしまう。両親に愛されず家庭での居場所を失っている自分自身と、森の闇の中で誰にも見つけられることなく横たわっているブラワー少年の死体に、自分自身を重ねてしまったからだ。泣き出しながら「僕は父や母から愛されていない」と話すゴーディに、彼の親友クリスは「君を理解していないだけだ」と優しく諭す。映画版での感動的なハイライトシーンだ。

 

しかし、原作では打って変わって、上記の感動的なやり取りは登場しない。その代わり、ブラワー少年の口の中からカブトムシが飛び出し、仲間の一人のテディが「こいつの体の中は虫けらでいっぱいだ!」と叫びだす。

そうだった、前述したとおり、キング氏の本流はホラーなのである。上記の死体の描写もさることながら、4人の少年の後日談についても徹底的で容赦がない。考えればわかることだが、不良グループを銃で追い返した彼らが、後になって報復を受けないわけがない。その後の少年たちの末路、不良グループのリーダーであるエースの落ちぶれた姿を描写し、物語は終わる。

本作を、映画で知った方が殆どだと思う。かくいう私もその一人だ。しかし、映画版と同じような感動巨編を本作に期待すると、キング氏の持つ不穏な文体に、映画版とはまた違った印象を覚えることになるだろう。

 

本作のテーマは、この物語の言葉を借りるならば「大切なことは、口に出していうのは難しい」ということに尽きる。「少年たちのひと夏の冒険」「死体探しの旅」、本作を要約するならば、そんなところになるだろう。

しかし、語り部ゴーディにとっては重要な思い出であり、そんな単純な要約では済まされないほどかけがえのないものだ。道中で彼が、明け方に一人でいるときに遭遇した雌鹿との静謐で優美なエピソードなどはその代表だ。

「明け方、森の中で雌鹿に出会う」という、ただそれだけのことが語り部ゴーディにとっては「この旅のハイライトである」と綴られる。

内に秘めた想いや印象的な記憶の断片を他者に伝えようとすると、それが持っていた本来の輝きは失われてしまう。他者に物語を語ることの難しさ、それこそがこの作品のテーマだ。

 

本作に収録されているもう一つの中編「マンハッタンの奇譚クラブ」もまた、「物語を語ること」がテーマとなっている。私個人の感想としては、メインタイトルである「スタンドバイミー」よりも、この「マンハッタン~」のほうが、キング氏の才能の奥深さを強く感じる。

物語を語るということは、ある種の狂気の中に自分を追い込むことなのかもしれない。本作で描写されるように、「奇譚クラブ」のドアを開け、一種の「異界」に自分を追い込む行為なのかもしれない。本作の持つ、古典ホラーのような不穏な雰囲気に強く引き込まれた。

奇譚クラブ」の所在地はマンハッタンの街角だ。日常と地続きの場所で繰り広げられる奇妙な会合、会の最後に「物語を語る」ということ、語られるエピソードの数々、それらは「物語を語る」ことの異様さを演出している。

最後に語られる老人マッキャロンの逸話には、キング氏の圧倒的な才能を見せつけられたかのようだった。逸話自体はキング氏の得意とするスプラッターホラーの構造そのものなのだが、読後、静謐な感動が押し寄せてくる。「ホラーで感動させる」という思いもよらない手法を展開するキング氏の非凡な才能に、改めて圧倒された。

 

一筋縄ではいかないキング氏の才能が凝縮された二編が堪能できる、入門編としても薦められる作品である。